モデルコース
生路地区 生道塩を祀る神社や寺などを巡るコース 約2.0km
生路コミニュティセンター 出発
1天満宮(てんまんぐう)
祭神 菅原道真
建てた時は不明だが、鳥居に「天明6年(1786年)12月吉日 願主 當村子供中」と刻まれている。古くよりこの地で親の願い、子供の願いをかなえるありがたい「天神さん」として、現在も塚越屋敷組の人たちに祀られている。一時は伊久智神社に合祀されたが、一年ほどして塚越屋敷に赤痢が流行し、協議の結果再びもとの場所へ戻した。
京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮の二つに、大阪あるいは山口県の防府をいれた三つの天満宮が、日本三天神と呼ばれている。(再建した年月は不明)
祭礼絵図
上段の右から
①御幣もち ②笛 ③太鼓 ④ささらすり ⑤獅子
2伊久智神社(いくじじんじゃ)
古くは生路八剣大明神と称し、亨徳3年(1454年)に氏子の長坂近江守、長坂伊豆守、長坂将監らが再建と記された棟札が現存している。 (創建は不明)
【祭神】
木花開耶姫命(このはなさくやひめ みこと) … 安産の神様
塩土老翁(しおつちのおじ) …製塩の神様
神社には、宝暦5年(1755年)尾張藩が各村々の祭礼を調査した資料が残されており、祭礼絵図には獅子舞、馬の塔が描かれている。つまり現在の駆け馬は行われておらず、オマントとよばれるもの。説明書には神社の禰宜である平野権太夫と、生路村の庄屋である喜左衛門の名前がある。また元治2年(1865年)の安産御祈祷覚帳が残されている。明治5年(1872年)より「伊久智神社」と改称した。
生道塩について
本来の祭神は塩土老翁神で製塩を伝授し、「神塩」を作るための神塩浜が置かれていた。塩自体を神饌(お供え)ではなく「塩霊」(神様)としており、とても珍しいことである。「生道塩」と名付けられた塩が「延喜式」という書物に登場し、平安時代に尾張国から都に送り、京都の東寺(教王護国寺)のお供え物とした記録が残されている。
さらに社殿北側には、樹齢450年を数える楠の大木が並び、うっそうとした森をなしており、大楠の森として町指定の天然記念物となっている。
3北組けいこ部屋
普段は祭りの道具類が保管されている倉庫だが、実は生路の学校の草分けである。
明治以前は寺子屋教育として常照庵と観音堂、それに久野丈助が師匠の寺子屋があった。その後生路、藤江、有脇の連合で藤江の安徳寺に反強学校を創立。そして、反強学校より分かれて北組けいこ部屋に、明治10年11月7日に生路学校として開設された。5年後には道を隔てた西側に校舎を新設し、ここには今も当時の石の門柱が残っている。
初代校長は久野参太郎(久野丈助の子息)。彼は生路学校が生浜学校、生路尋常小学校となってからも、明治40年まで校長を務めた。そして、大正15年に現在の生路小学校の場所に町内初の鉄筋コンクリートの校舎が建設された。4,000坪の敷地に2階建ての544坪の建物は、しめて76,000円(今なら8億円くらいか?)。しかもそれらの費用は全額生路区民によってまかなわれたという。
4多賀社(たがしゃ)
西嶋屋敷の神塚
祭神はイザナギの命とイザナミの命。寿命の神様と呼ばれる。
文化2年(1805年)8月の長寿者調査の報告書によると、何と89歳以上が5人もいた。昔は姥捨て山があって60歳を超えると山に捨ててきた、.などの話があるが、江戸時代は儒教の教えもあって年寄りをとても大切にした。尾張藩では90歳から殿様より褒美をもらうことができた。(この5人は女4人男1人でしたが、殿様から褒美をもらっていたのでしょうか)
5弘法道と丁石(ちょういし)
町内には知多四国88か所霊場のうち、7番極楽寺(森岡)、8番傳宗院(緒川)、9番明徳寺(石浜)、10番観音寺(生路)、11番安徳寺(藤江)の5霊場がある。
次の札所へ参拝者を導く弘法道しるべが、主に明治後半地区の人々によって建立された。丁石は次の札所まであと何丁の道のりを示すもので、道沿いにほぼ一丁( 約109m) ごとに立っている。
6福聚山 観音寺(ふくしゅうさん かんのんじ)
曹洞宗、本尊は聖観世音菩薩。
知多四国第10番札所
寛文3年(1663年)に生路村中(村が建てた)として観音堂創建される。
昭和17年(1942年)に観音寺と改称した。7年ごとに開帳供養され、旧暦2月3日~3月3日まで古式に準じて地区住民により執り行われる。本堂の隣に十王堂がある。尾張徇行記という書に「村中として創建ス」と書かれており、檀家はない。現在は常照寺と神後院が交替で管理している。
7生路山 常照寺(いくじさん じょうしょうじ)
曹洞宗 本尊は阿弥陀如来
享禄元年(1528年)創建と伝えられているが、延徳3年(1491年)に書かれた書物「梅花無尽蔵」に「常照庵薬樹の詩」が詠まれており、創建はこれより古いと考えられる。
この薬樹というのは香木に似て、冬でも葉が枯れず細い美しい葉が茂っていた。和尚はこの木を大切にしていたが、薬として人のお役に立つのならと自ら切り取ったという。乾坤院の末寺であったが明治9年(1876年)乾坤院から独立し、昭和17年常照庵を常照寺と改称した。檀家には長坂姓が圧倒的に多くみられる。
8生路井(いくじい)
この井戸は、地元では「森井戸」と呼ばれてきた。今も隣組の3北組と3南組が、共同で迎春準備と3月に祭事を催して守り管理している。
そのいわれは「ひがしうらの民話」の中で次のように紹介されている。
『昔、日本武尊(ヤマトタケル)が東国征伐の途中、兵を連れて狩に出ました。この辺りの里を通りかかった時、暑さで喉が渇き土地の者に井戸を訪ねましたがありませんでした。困った尊が山の麓の崖の下の大きな岩の下が湿っているのを見つけ、弓のはずをエイとばかりに突き立てると、そこから冷たい清水がこんこんと湧き出し、たちまち泉ができてしまいました。 』
その後この泉は生路井と呼ばれ、村の人の飲み水として利用されたが、不思議なことに心の良くない人がこの水を飲もうとすると、たちまち濁ってしまったという。 人々はこの井戸を神の井戸として大切に祀った。
昔は水が豊かに流れていたのであろう、昔から水が流れ出してくる辺りを「井之口」 といい、豊かに水が湧き出していたこの辺りも井之口と呼ばれていた。時間の経過 とともに井之口が井口、イクジとなり、生道、生路、幾地、伊久智などと書かれ村の名前になったと言われている。
生路井の碑
右側の大きな石碑は、大正6年1月熱田神宮宮司の岡部譲撰文并書。
日本武尊が弓のはずを突き立てると、たちまち湧き出でる霊泉にして、穢れし者がこれを汲めば水必ず濁りしといえり、かかる霊泉もいつしか涸れて名のみ残りし…とある。
原田喜左衛門の墓
9佛国山 神後院(ぶっこくさん じんごいん)
曹洞宗 本尊は薬師如来
永禄7年(1564)創建、嘉永3年(1850年)火災により焼失、同7年再建。
明治初めに、乾坤院から独立した寺格となり、昭和17年(1942年)神後庵を神後院と改称した。檀家には長坂姓以外の、原田、神谷などが多くみられ、白砂糖を製造した原田喜左衛門の墓がある。江戸時代の享保年間に将軍吉宗がサトウキビ栽培を命じたことに始まり、尾張藩の儒者松平君山が長崎の人より砂糖の製法を学び、原田喜左衛門の力量に着目してそれを伝授した。
享保年間、藩の奨励で原田喜左衛門は白砂糖の製造に成功する。原田家の白砂糖は「三盆白砂糖」の名をつけ、杉の曲げ物に詰めさらに桐の箱に入れて、尾張徳川家から将軍家への献上された。これらのことは昔の書物(張州雑志、尾州御留守日記)に記されている。
原田喜左衛門は庄屋を勤める家柄でったが、砂糖生産は周辺農民を巻き込む新産業に発展させることができず、繁栄は彼の代で終り、孫の代には家屋敷も借金のかたに取られて、借地に住むほどになってしまった。
原田鳴石の像
原田鳴石の銅像
彼は優れた教育家であるとともに、書道の大家である。教壇生活58年余を通して幾多の書道家の育成に専念された。
特筆すべきは、敗戦により日本の教育が6.3.3制に改められ、修身科(道徳)と書道科が廃止されることになった際、彼はGHQにマッカーサーを訪ねて書道科の継続を申し出る。7回の上京の末、ついに原案を考慮させた。後に彼は生路区長も勤めた。昭和42年9月12日没。
ちょっと寄り道
東浦唯一の酒蔵 原田酒造
原田酒造 創業 安政2年(1855年)
東浦における酒造りの歴史
知多郡はかつて江戸向けの清酒産地として繁盛していたが、その始まりは緒川にあったようだ。安土桃山時代に、大野や緒川には専門の酒屋が生まれており、天正8年(1580年)乾坤院の田地帳や、寛文11年(1671年)乾坤院校割帳には酒の記載があるので、乾坤院は自家醸造をしていたことが分かっている。寛文5年(1665年)幕府は酒造米の石高を持って酒株を設定し、幕府が直接統制した。
元禄10年(1697年)幕府は酒に5割の運上金をかけ、これの徴収の為に緒川の澤田仁右衛門を知多郡酒支配人に任命している。宝暦4年(1754年)になると、幕府は酒の勝手造りを許可し、これにより灘を始め各地で酒造りが盛んになる。緒川では塚本源左衛門が江戸へ酒を積み出すのに、自家用の船着場をもって商いをするなど、酒造業の隆盛振りがうかがえる。生路でも古くから酒造りが盛んで、仕込みに生路大明神の社辺に湧き出る亀井を使った亀屋酒と呼ばれる銘酒があった。
安永9年(1780年)尾張藩士で有名な俳人「横井也有」が来遊して一首を書き残している。
「汲人の よはいやともに よろつ世も 生路の里の 亀のいの水」
伊勢湾台風の碑
昭和34年9月26日(土)東海地方に多大な被害を残した伊勢湾台風。東浦町では海岸堤防の決壊で貯木場の材木が流れ込み被害を大きくした。25人(生路10人、緒川8人、藤江5人、石浜1人、森岡1人)もの方が亡くなり、重傷の方も56人いた。家屋の全壊320戸、流失79戸、半壊957戸、床上浸水184戸、床下浸水482戸という大災害で、もちろん水田も8割以上が被害を受けた。この6年前の13号台風後に施された災害防止工事も、伊勢湾台風の前には無力だったといえる。
栄華を極めた織物工場も今は1軒(生路)のみ
東浦の一時代を支えたと言っても過言ではない織物業。それを示すように生路には都市銀行の「東海銀行」が、昭和25年8月7日から昭和44年9月8日まで営業していた。織物会館の隣で木造モルタル仕上げの建物に23名の行員が働いていた。しかし今は織物業を生業としているのは東浦町で4軒、生路では1軒のみ。織物工場の跡地の多くは住宅に、一部はパチンコ屋、ゴルフ練習場、さらには病院になり、特徴のあるのこぎり屋根の建物も数少なくなった。
出典:東浦町誌、東浦町誌資料編、東浦地名考、東浦歴史散歩、東浦の仏像、知多半島なんでも事典、戦国期の知多、知多四国八十八カ所めぐり、武豊線物語、ウイキペディア
制作協力:東浦ふるさとガイド協会