モデルコース
石浜地区
歴史のロマンと住宅開発を併せ持つ石浜のコース 約2.0km
東浦町郷土資料館(うのはな館) 出発
1坊主橋(ぼうずばし)
文明7年(1475年)に乾坤院創建。乾坤院では川僧和尚以来の法灯を絶やさないため4世を3人立てた。以後三派に分かれて法灯は受け継がれた。
石浜村に同院末三寺がほぼ時を同じくして立てられた。
乾坤院の住職は4代以降、末寺の住職が輪番で勤めた。
末寺は61寺あり、輪番を勤める住職は行列の威儀を正し、この橋を渡って入山式に臨んだ。そのため人々はこの橋を坊主橋と呼んだ。
2明徳寺川(みょうとくじがわ)の水争い
明徳寺川の水争いに関する文書が12通あり、全て町の文化財となっている。一番古いものは元和7年(1621年)のもの。石浜と緒川との水争いは元和7年(1621年)から、県が両村のため池を新設した明治20年(1887年)に和解するまで、約300年間続いた。
3帝塚(みかどづか)
石浜下庚申坊に石塔と小さな祠が祀られている。村人の言い伝えでは、南朝方に縁のある貴人の墓であるという。昔はこの高台の下まで海であったので、行きかう船は帝塚の下で一旦帆をおろし、敬意を表して航行したと伝えられている。貴人は南北朝時代の南朝方の宗良(むねなが)親王ゆかりの者と考えられる。
4稲荷神社(いなりじんじゃ)
天文6年(1537年)牛頭天王社を建立したと伝える。(怨霊を鎮める。厄除け開運。祇園祭りを7月に実施)
正徳6年(1716年)天王社境内に稲荷神社を勧請。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=五穀豊穣・商売繁盛の神)
境内に竹内清兵衛翁碑・西南役碑・石浜植林之碑・三山禅定碑ほか多数ある。
5江戸時代のメインストリート
先祖の霊を祀り豊作を祈る山の神社(現片葩小学校)から、石浜の庄屋を長い間務めた鈴木新左衛門宅を通り、子新田(ねしんでん)に至る東西に走る坂道が、江戸時代からのメインストリートだった。この道路を元に村は南組と北組に分かれ、祭礼ではみこしの豪華さを競い合った。
この道路の中心にある、阿弥陀十王堂や郷蔵の建つ広場(現平林公園)が村の中心地であった。
6石浜学校跡(いしはまがっこうあと)
阿弥陀十王堂建立(文安4年1447年)・再建(大永元年1521年)・石浜学校(明治8年1875年)・役場(明治39年~約1年半)・その後学校・区事務所・平林ちびっこ広場・現在は平林公園になる。
建物は最近まで残っており、『旧学校』と呼ばれ親しまれた。
石浜コミュニティセンター(旧公民館)が建設されるまで石浜の区事務所はここに置かれた。
7石浜地区の住宅地の拡大
石浜の西部の丘陵の里山に山ノ神社があった。
その場所は片葩小学校、もう一つは白山権現社のあった権現堂山で今のアイプラザ付近。石浜権現堂山を中心に広さ34haの石浜住宅団地が開発され昭和46年入居が開始された。規模は県営住宅1,470戸、分譲503戸であった。
現在は県営の2階建ては取り壊され5階の高層住宅ひ建て替えられた。平成16年(2004年)に子新田も住宅地となり、石浜、中央となかねとなり、片葩小学校の北側の丘陵も開発され、桜見台住宅となった。平成19年には、緑ヶ丘住宅が、さらに現在、豆搗川の南に広がる南が丘と呼ばれる420戸規模の住宅が進行中である。
2011年3月現在 | 世帯 | 人口 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
石浜 | 5,042 | 12,723 | 6,338 | 6,335 |
東浦 | 19,078 | 50,723 | 25,275 | 24,890 |
割合 石浜/東浦 | 26.4 | 25.4 | 25.3 | 25.4 |
出典: 東浦町誌、東浦町誌資料編、東浦地名考、東浦歴史散歩
制作協力: 東浦ふるさとガイド協会