モデルコース

緒川下切地区
於大の方と水野氏ゆかりの地を訪ねるコース 約2.0km

JR武豊線 緒川駅 出発

1八郎兵衛の常夜燈 (はちろべえのじょうやとう)

緒川の南、村はずれに明治28年5月建立された。日清戦争直後で、国威が高揚した時期であった。

2於大のみち (おだいのみち)

生い立ち広場から乾坤院までの明徳寺川の両岸に約2kmの歴史散歩道。於大の出生地をテーマに、於大の生涯と水野氏の歴史を刻み「於大のみち」となづける。

3宇宙山乾坤院 (うちゅうざんけんこんいん)

緒川城から見て、乾(北西)坤(南西)に当たるという易学上からの命名であろう。本尊を大通智勝如来(胎内仏・釈迦牟尼仏)とする曹洞宗の別格寺院である。開基は初代緒川城主水野貞守。文明7年(1475)に創建された。

4総門(そうもん)

総門は、一間薬医門、切妻造りで本瓦葺である。寺の門としては、全体に木柄が太く斗栱・虹梁・蟇股などの装飾的な意匠を用いず、質実・豪壮な印象をうける。曹洞宗伽藍の総門として格式を備えたものとみられ近世前期の貴重な門である。寺の記録によれば、68世金牛の代(寛永7~8年・1630~31)に建てられたとされる。

5山門 (さんもん)

山門は、三間一戸の二重門で屋根は入母屋造り銅瓦葺である。

二階は四周に回廊が設けられ、高欄が回らされている。正面中央柱間に桟唐戸があり、その両脇に格子付きの窓を設けている。全体に禅宗様式で統一され、小規模ながら県内の数少ない二重門として貴重な建物。寺の記録によれば、100世符擎和尚の代(天和2年・1682)に建てられたとされる。(東浦町指定文化財)

6水野家四代の墓所 (みずのけよんだいのぼしょ)
7堅雄堂 (けんゆうどう)

水野忠義は、初め下総山川城3万5千石の領主であったが、後に岡崎城5万石に封ぜられた。その栄進を喜び、曾祖父に当たる忠政の功業を記念して、寛文10年(1670)この堂を建て、忠政の法名「大渓堅雄大居士」にちなんで堅雄堂と称した。
堂は、三間四方、本尊は千手観音、水野氏歴代の位牌を祀り、檀上向かって右に、忠政の木像、左に忠善の木像を安置してある。堂の西隣りの忠政の墓、その南の忠守-忠元-忠善の大五輪塔も忠善が建てた。(東浦指定文化財)

8於大公園 (おだいこうえん)

於大公園と名付けたのは、徳川家康の生母である於大の方が、東浦町の緒川城主水野忠正の娘として生まれ、その水野家の菩提寺である乾坤院に隣接することから於大公園とした。公園全体面積 12.1ha。

9緒川城主三代の墓所 (おがわじょうしゅさんだいのぼしょ)

緒川城主初代水野貞守(中央)、二代賢正(向かって左)、三代清忠(向かって右)の墓である。文明7年(1475)頃、水野貞守が緒川城を築いた。

貞守は長享元年(1487)没、賢正は永正11年(1514)没、清忠は父に先立って永正6年に没した。

なお、右の2墓は4代忠政の兄、成政(1522没)とその子成清(1533没)の墓である。(東浦町指定文化財)

10緒川城址 (おがわじょうし)

初代緒川城主、水野貞守が文明年間(1469~1486)に築城して以来、約130年間水野氏の居城であった。
慶長11年(1606)、最後の緒川城主水野分長三河国新城1万石に移封となり、緒川城は廃城となった。
緒川城は、海岸沿いの平地を裾野にもつ低い山の中腹に築かれ、城下町と一帯となった平城であった。
城跡の周囲は、三方が山地形で、東側は急な崖になっている。
緒川城に関する史料として、江戸時代初期に描かれた「緒川村古城絵図」(名古屋市蓬左文庫所蔵)がある。絵図には、土塁(土を積み上げて築いた城壁)と塀に囲まれた大小の曲輪(郭)が描かれている。中央から南の一段と大きい曲輪が城の中核をなす主曲輪で、東西83m・南北95mほどの方形状である。北の曲輪群は家臣の屋敷地で、その一画は、分長の時代に居城とされ「高藪城」と呼ばれた。
今この地域は住宅地になっており、土塁の一部が残るのみとなっている。(東浦町指定文化財)

11地蔵院 (じぞういん)

曹洞宗、創建は不詳であるが、本尊の木造地蔵菩薩は、大昔近くの海岸に漂着し、かき殻が付いていたので「かきがら地蔵」と呼ばれた。境内に水野家家紋ゆかりの「沢潟の井戸」と、いぶきの大木(樹齢約300年の古木・東浦町指定文化財)、うなり石がある。

【おもだかの伝説】

緒川城主水野清忠の奥方は初め子がなかったので、かき殻地蔵に祈願を続けました。満願の日、清めの水を汲もうとすると、井戸の中に一茎の沢潟が浮かび、葉の上に永楽銭が乗っていました。間もなく子宝を授かり、産湯にもこの井戸の水を使いました。以来、水野氏はこの地蔵を深く信仰し、沢潟と永楽銭を家紋にしたとも言い伝えがありますが、沢潟の葉が矢じりの形に似ていることから、武家の家紋として好まれました。

ちょっと寄り道

坊主橋(ぼうずばし)

乾坤院の住職は、四代以後、末寺の住職が2年輪番で勤めることになった。この橋を渡って入山式に臨んだ。この故に、この橋を人々は坊主橋と呼んだ。

卯の花(うのはな)

「白波のかかる汀とみえつるは小川の里に咲ける卯の花」(夫木和歌集)この歌の故事から、小川(緒川)は古くから卯の花の里と呼ばれた。

二十四人力士の墓(にじゅうよにんりきしのはか)

24人力といわれた力の強い男が、この男のいたずらに困り果てた村人によってここに埋められ、その祟りを鎮めるために墓を作り供養したと伝えられる。

札木の辻跡(ふだきのつじあと)

尾張藩の頃、この辻の西北に石垣があり柵の中に切支丹高札・浦方高札が掲示され、ここは祭礼・その他の行事の時、村人の集散の広場であった。今もこの地を札木という。

ルートマップ