モデルコース

緒川地区 入海貝塚とお寺のコース 約3.0km

JR武豊線 緒川駅 出発

1善導寺 (ぜんどうじ)

浄土宗・鎮西派。京都知恩院の末寺。嘉吉3年(1443年)音誉聖観上人が創建した。寺は始め海辺にあり、度々潮水の害を受けたので、慶長10年(1605年)緒川城主水野分長が現在の山上に移し再建した。家康の生母伝通院於大の方は、度々生まれ故郷のこの寺に参拝し、彼女の寄進した三尊阿弥陀如来像、善導大師木像・同師自画像、同師所持の柄香炉が今も保存されている。

尾張藩の頃、寺領21石9斗6升を給せられ、歴代藩主の黒印状がある。県指定文化財「異国降伏祈願施行状」のほか、後柏原院御宸翰、宮本武蔵筆円光大師像、於大使用の夜着等を所蔵している。

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2乗林院 (じょうりんいん)

浄土宗、本尊は阿弥陀如来。慶長13年(1608年)前の善導寺住職九誉雪底を開山として創建された、善導寺の塔頭。明治5年学制発布の時、緒川村・石浜村協同の「郷学校」が本堂に開設された。

3越境寺 (おっきょうじ)

日遵上人(1487年没)が創建。天正3年(1575年)に水野信元が信長によってい殺害された後、佐久間信盛によって破壊されたが、佐久間追放の後、再建された。水野信元の朱印状、血曼荼羅、慶長法難の主題軸などがある。

4切支丹燈籠(きりしたんとうろう)

越境寺境内の奥庭にある石灯籠。隠れキリシタンが礼拝の対象とした灯籠と伝えられている。材質は、竿・笠ともに天城石で、竿の長さは90cm、胴回りは100cmから105cm、やや上部が太り、上に笠が乗る。笠は高さ38cm、天に擬宝珠を置き、なだらかな八角形に広がる。円柱の笠の前後には三段線で縦17cm、横13cmの十字架の模様を貫き、内部は広くくり抜いて火袋とする。笠の両横も十字架と同様の文様浅彫りにし、その内部に右側三日月、左側日輪を彫り込んでいる。尾張藩では寛文年間に切支丹の弾圧があった。(町指定文化財)

5東光寺 (とうこうじ)

創建は不詳であるが、もと字笠松の高台にあり、文明年中に乾坤院二世逆翁宗順が乾坤院建立の間、居住したと伝えられる。明治初年まで庫裡を寺子屋としていた。


<知多四国八十八ヵ所巡礼 第八番>

6傳宗院 (でんそういん)

天文年間に水野氏により創建される。知多四国第8番札所。観音堂に十一面観世音菩薩を安置し、33年毎に開帳される。弘法道の案内の「丁目石(弘法道しるべ)」がある(9番へ24丁)。

【弘法道しるべ】

次の札所へ参拝者を導く弘法道しるべが、おもに明治後半、地区の人々によって建立された。丁石は次の札所まであと何丁の道のりを示す。道沿いには、ほぼ一丁(約109m)毎に立っている。

7天白遺跡ひろば (てんぱくいせきひろば)

天白遺跡の発掘調査で竪穴建物などが数多く見つかり、弥生時代・古墳時代を中心に大きな集落があったことが明らかになった。ここでは見つかった竪穴建物などをカラー舗装により時代別に色分けして実物大で紹介する。

8中川南巌石碑 (なかがわなんがん)

東浦町の書家、中川南巌の石碑。

9夜啼き石 (よなきいし)

入海神社の参道にある。昔、緒川城にあって、夜になると犬の遠吠えのように鳴いたと言われる。寛延2年(1749年)入海神社に奉納された。

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10入海神社 (いりみじんじゃ)

祭神は弟橘媛命、応神天皇。
日本武尊が東征する時に、紅葉川から船に乗って出発し、相模の海で嵐にあった時に、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が入海して、海が静まり、その媛の櫛が紅葉川に流れついたといわれる。(社宝の正宗の短刀と長船の太刀は町指定文化財)

11入海貝塚 (いりみかいづか)

入海神社境内に所存し、神社の拝殿・本殿東の段丘崖に沿って幅約10m、長さ約80mの貝層が弧を描くように分布している。 縄文時代早期後葉(約7000年前)の貝塚で、貝塚からは縄文土器を中心に、石器・骨角器などが出土した。 縄文土器は尖底で砲弾型をしており、口縁下に数条の突帯をめぐらし、突帯にヘラなどで刻みを入れているのが特徴で「入海式土器」と呼ばれ、 東海地方の縄文時代早期末の基準土器となっている。上層には弥生式土器の散布もみられ、宮西貝塚へも貝層は続いている。貝は75%がハイガイ、15%がカキ、残りがアサリやシジミである。(国指定文化財)(宮西貝塚は現在住宅地で非公開)

12了願寺 (りょうがんじ)

真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。創建は明らかではないが、明応年間には天台宗大府延命寺の末寺で帰命寺と称した。大永2年(1522年)に浄土真宗了願寺と称したと伝える。尾張藩の漢学者「永井星渚昣齋先生」(小説家の永井荷風の一族)の墓がある。

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13社宮司 (おしゃぐちさん)

石を祀った古代からの自然信仰のひとつ。各地に「しゃぐじ」と呼ばれる信仰が残っている。(写真は以前のものです)

14緒川村郷蔵 (おがわむらごうぐら)

尾張藩の頃、毎年百姓から取り立てた年貢米を、船で名古屋へ積み出すまでこの倉庫に保管した。昔は今の国道辺りまで舟が入った。また生活に困った者に給与する米、不作の年に備える米等も貯蔵した。現在、緒川公民館及び児童館の建物がある一帯の広場は、緒川村の豪農で、酒造家塚本源左衛門の屋敷地であった。その後、明治12年から昭和17年まで(64年間)緒川小学校用地であった。

出典:東浦町教育委員会発行東浦町文化財ガイドマップ

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