緒川城主水野氏

緒川城 御城印 販売中 <1個300円>

水野宗家20代当主の水野勝之氏による揮毫です。
於大の方をイメージした淡桃色の和紙に水野家の家紋を捺印しました。
東浦町勤労福祉会館と東浦町郷土資料館(うのはな館)で販売中です。

1475年頃初代緒川城主水野貞守から五代信元まで、その後は忠重など弟たちとその子供たちや、於大の子供たちが水野氏一族として活躍しました。ここでは、桶狭間の戦い後に水野氏が家康を助け、三河一向一揆を乗り越えて家康が基盤を確立したこと。その後も家康を助けさらに、徳川幕府を水野氏一族が支えていた流れを簡潔に整理しました。

水野氏の生い立ち

水野貞守は小河氏の末裔と名乗る

小河(おがわ)氏は、平安時代末期の平氏政権に追われ各地に散った源氏一族のうち、小河に移り住んだ重房を祖としています。鎌倉時代に地頭職だった小河氏は、延文5年(1360)に八代小河正房が美濃の守護土岐(しゅごとき)氏に滅ぼされます。子孫は水野郷(今の瀬戸市)に流浪します、それから100年ほど後になって、小河氏の末裔を名乗る「水野貞守(さだもり)」が緒川の旧塁を修築し、水野家菩提寺の乾坤院を文明7年(1475)に創建したとされています。

室町時代、知多半島を支配していたのは、三河の守護一色(しゅごいっしき)氏でしたが、応仁の乱で急速に勢力が衰えました。その機会に台頭したのが大野・内海の佐治(さじ)氏、三河の田原から来て師崎・河和方面に進出した戸田氏、緒川・大高・常滑を抑えた水野氏でした。これらのことは江戸幕府によって編纂された水野氏の家譜に記されています。

水野貞守の次は二代賢正(かたまさ)、三代清忠(きよただ)で、この三人のお墓は於大公園の北東の一角にあります。ここは緒川城と乾坤院の中間にあたる高台で、いずれも五輪の塔で当時としてはかなり大きくて立派なお墓です。こうした水野家に関することは、乾坤院創建に尽力した「逆翁崇順(げきおうそうじゅん)」の直筆として残る「水野先祖御判物写(ごはんもつうつし)」により、明らかになっています。しかし、源氏一族を名乗る小河氏に対し、水野氏は戦国時代に藤原姓を名乗っていたことから、水野氏は小河氏の子孫とは違うのではないかとも考えられています。

中興の祖と言われる四代忠政(ただまさ)

水野家のなかで中興の祖と呼ばれたのが四代忠政です。彼には9人の男子と6人の女子がいました、女子は政略によって知多・三河の城主に嫁ぎました。男子は家康の外祖父忠政の一族である縁で、大名や旗本になりました。忠政は天文2年(1533)尾張と三河を結ぶ要衝である刈谷に城を築きます。於大も家来たちも刈谷へ移り、家臣たちの屋敷は緒川町と呼ばれました。今の司町にあたります。

その忠政の墓は、乾坤院内の焼失した堅雄堂(けんゆうどう)の隣にあり、花崗岩製の宝塔型で高さは約3mもある立派なものです。この忠政のお墓より一段低い所に、これも大きくて立派な五輪の塔のお墓が三つ並んでいます。忠政の墓に近い方から忠守(忠政の子ただもり)・忠元(忠守の子ただもと)・忠善(忠元の子ただよし)と並び、これら四つのお墓は忠善が岡崎五万石城主に出世したときに、ご先祖様に感謝して寛文10年(1670)に堅雄堂と共に建立し忠政のお墓を改修しました。

この五輪の塔は「宇宙の五大要素(空・風・火・水・地)」を象徴しており、また上から頭・顔・胸・腹・足と人の体を表していると言われます。これら四つのお墓を「水野家四代の墓所」と呼びます。

信元(のぶもと)は今川と手を切り織田を選択する

父・忠政は松平氏と共に今川氏についていましたが、信元は織田氏と同盟関係を築きました。この選択こそが水野家の命運を決めることになります。村木砦の戦いでは信長の助勢で今川軍を破りました。このころ知多半島は佐治氏や戸田氏が勢力を持っていました。信元は坂部城、宮津柳審城(みやづりゅうしんじょう)、成岩城(ならわじょう)、長尾城、富貴城(ふきじょう)を下し、さらに佐治氏の娘を弟信近の妻に迎え戸田氏には信元の娘を嫁がせて和睦します。こうして知多半島を勢力下に治めることに成功します。

水野家の助勢があって家康は三河をまとめ天下統一につながった


水野信元の墓(刈谷市楞厳寺)

永禄6年(1563)の三河一向一揆では信元は弟忠重(ただしげ)と共に家康を助け、三河一向一揆の平定とその後の混乱終息に大きな役割を果たしました。その結果、家康は三河を統一して地盤を固め、その後の勢力拡大に結び付きました。しかし信元は、岩村城攻めの時に敵方に兵糧を送ったと佐久間信盛(さくまのぶもり)の告げ口により、信長の命で家康に大樹寺に呼び出され殺害されてしまいます。領地は取り上げられ水野一族は方々へ離散しましたが、その後疑いが晴れて天正8年(1580)忠重が刈谷城主、忠守が緒川城主に復帰します。その信元のお墓は刈谷の楞厳寺(りょうごんじ)にあります。このことは水野氏の拠点は緒川ではなく、刈谷に移っていたといえます。

村木砦の戦いが水野家の命運を左右した

於大の兄水野信元は織田信長の助勢を得て、1554年村木砦の戦いで今川軍に勝利し、これにより水野家は守られました。この時、織田信長は戦で初めて鉄砲を使いました。

(この項目については観光協会ホームページ「村木砦の戦い」をご覧ください)

信長・家康を同盟させ 支えたのが水野信元

水野信元と徳川家康のかかわり

東浦町誌の年表に挙げられている事柄は以下のもの。

1541(天文10)年
於大、岡崎城主松平広忠へ嫁ぐ
1542(天文11)年
12月於大、竹千代を生む
1543(天文12)年
7月12日水野忠政没す、乾坤院葬
1544(天文13)年
8月水野信元、織田信秀と同盟。 同年於大は岡崎を離縁され、後に久松俊勝と再婚
1554(天文23)年
水野信元と織田信長が、今川方の村木砦を落とす
1558(永禄1)年
水野信元、松平元康と石ケ瀬で戦う
1560(永禄3)年
桶狭間の戦いで、水野信元は大高城の松平元康に今川義元の戦死を告げ帰国を促す

水野信元と織田信長のかかわり

東浦町誌の年表に挙げられている事柄は以下のもの。

1561(永禄4)年
このころ水野信元が立ち会い、織田信長と松平元康が清洲城で会談し同盟を結ぶ
1563(永禄6)年
水野信元、三河一向一揆に参戦
同年水野信元、松平元康・織田信長と並んで足利義輝の外様在国衆として記される
1568(永禄11)年
水野信元は織田信長に従い入京し、イエズス会の会堂を宿舎とする
1570(元亀1) 年
水野信元・忠重、姉川の戦いに参戦
1574(天正2) 年
3月に水野信元は、足利義昭から信長討伐を命ずる文書を受ける
(この文は家康にも送られ、甲州の武田勝頼と協力せよというもの。しかし、信長は将軍のこうした動きを察知していた。)
1575(天正3) 年
12月に水野信元は、織田信長の命令で殺される

信長の美濃進出から天下への道

その前提として徳川家康との同盟なくしてはあり得ません。その同盟を仲介したのは水野家四代忠政の子、水野信元です。この意味で信元は、信長の天下統一の前提条件をつくったと言えます。

桶狭間後の家康の三河における基盤

きわめて脆弱なものでありました。それを支えたのが水野信元であり、特に三河一向一揆は信元・忠重の助けがあったから乗り切ることができたのです。

桶狭間の戦い後

信長、家康、信元が清洲城で同盟を結んだ以降、信元が三河の支配に関与している古文書がいくつも見つかっています。(三河平坂の山の開発権を無量寿寺に与える水野信元安堵状、三河一向一揆後の紛争処理に信元が関与していたことを示す本光寺文書…など)
※このように二人の英雄が活躍したことは、水野信元の存在抜きに考えられません。

信元の弟とその子供たちの活躍

資料「近世の水野氏」にでてくる、信元の3人の弟とその子供たち、さらに乾坤院に関係のある忠善の活躍ぶりを以下にまとめました。信元が信長の命により殺害された後、弟の忠重がその跡を継いでいます。

水野忠重

刈谷城主となった水野忠重は、家康の要請を受け信元と共に出陣。鷲塚御坊による一揆方を攻め寺を焼き、一揆方に包囲されていた西尾城に兵糧を搬入し家康を勝利に導くなどして、三河一向一揆を平定させました。

その後、掛川城攻め、小谷・姉川の合戦で手柄を上げ、三方ヶ原合戦の功で槍・兜を与えられています。さらに、小牧長久手の戦いに参戦し秀吉の小田原城攻めに分長と共に従軍し、秀吉から論功行賞を受けています。そして、1590年(天正18)4万石で伊勢の神戸城へ移封となります。しかし、関ケ原の戦い直前に酒宴の席で殺害されます。

水野勝成

忠重の子供の中で勝成は歴史上に名を残す人物です。三河刈谷藩主、大和国郡山藩主、備後福山藩主を務めました。関ヶ原の戦いでは大垣城の抑え役を担い、役目を果たすとともにこの時父忠重を殺害した、加賀野井の息子を打ち取り父の仇討をしています。

その後の大坂の陣の論功行賞として3万石加増の6万石で郡山に転封となります。その5年後に秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられます。入封に際し福山市に新たな福山城と城下町を築きました。福山城は武家諸法度で新規築城が禁止されていた中で、例外的に認められた近世城郭最後の城です。その規模は10万石としては破格の規模であったといいます。

そして、城下町建設にあたり上水道網を整備、全国初と言われる藩札の発行、イグサの生産を統制治水工事や新田開発や鉱山開発などを行い、現在の福山市の礎を築きました。

水野忠守

忠政の4男・忠守は、大名家となった岡崎―唐津―山形水野家の祖。信元が父の跡を継いで刈谷城主となった後は、信元に代わって緒川城主となりました。忠守の動向はよく分かっていませんが、家康に仕え、家康の関東移封に際して相模国玉縄城主となりました。

水野忠元

忠守の子・忠元は下総山川藩の初代藩主。2代将軍秀忠の側近として仕えました。大阪冬の陣・夏の陣に参戦し、1615年(元和元年)下総国・下野国3万5、000石を与えられ、大名となりました。

水野忠善

忠元の子・忠善は岡崎藩主となった時、ご先祖に感謝して、乾坤院に堅雄堂・四代の墓所を建立しました。父忠元の死後、1万石加増されて駿河田中藩へ。ここでは大井川の氾濫に備えるため700mにわたり「千貫堤」を築き、さらに、灌漑用水を整備しました。その後吉田藩へ移り5,000石加増されて5万石岡崎藩主となりました。

老中7人を輩出、多くの大名、旗本として幕府を支えた

260年余続いた徳川幕府において本家筋・分家筋として存在感を示し、幕府の老中7人(忠善の系統から忠元、忠之、忠邦、忠精が、勝成の弟忠清の系統から忠友、忠成、忠誠)をはじめ多くの大名を輩出しています。享保の改革の時の水野忠之、天保の改革の時の水野忠邦など。それに、よく知られている赤穂浪士47士の討ち入りでは、討ち入り後に赤穂浪士は松平家・細川家・毛利家・水野家に預けられましたが、神崎与五郎ら9名が預けられたのが水野家。この水野家は水野忠之であり、忠善の孫で3代後の岡崎藩主その後老中です。

※大名と旗本の違い…大名は1万石以上で藩主、その中でも徳川家の血を引く親藩大名(徳川御三家)と関ヶ原の戦い以前から仕えていた譜代大名、関が原以後に仕えた外様大名に分かれる。旗本は1万石以下で将軍直々の家臣。役割は大名が藩の守護者で旗本は幕政の実務者。両者は将軍に直接会うことが出来た。

於大と久松俊勝の子供たちも徳川幕府を支えた

於大の方は阿久比の久松俊勝に再嫁し、3人の男の子が生まれました。その子供たちが成長すると、家康は弟として取り立てて要職をまかせ、幕府安定に大きく寄与することになりました。つまり、当時は一番信頼できる身内で要所を固めたのです。

長男の松平康元

岡崎の上ノ郷城主となった後に、下総国関宿藩2万石さらに加増されて4万石に。関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役を務めています。

次男の康俊

家康の命令により今川氏真の人質として駿府へ、その後に武田の人質として甲斐国に送られ、逃げるときに両足の指を凍傷でなくします。駿河国の久能城を与えられました。死後、娘婿として水野忠分の子・松平勝政を迎え後を継いでいます。

三男松平定勝

27,000石の伊勢国長島の領主、次に掛川藩主となりました。慶長7年於大の方が伏見城で死去、その棺を傳通院まで護衛。伏見城代に就任し、元和3年に6万石加増され伊勢桑名藩11万石の城主となりました。

町内に残る水野家・於大の方に関わる史跡

緒川城址

水野貞守が文明年間(1469~86)に築城したと伝えられ、今も当時の土塁の一部が保存されています。目印は数本の松の木がそびえ、城址内には家康の生母「於大の方」出生地の碑が建っています。1601年には水野分長が1万石の緒川藩主になり、1606年新城移封になるまで緒川は城下町だったのです。


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乾坤院

1475年水野貞守によって創建された曹洞宗の寺院。水野氏の先祖を祀る一方、門葉は尾張・三河・遠江に広がり、江戸時代には末寺60か寺、小末寺19か寺を抱える中本山として大きな勢力を持っていました。本堂は火災で焼失してしまいました(令和元年再建)。そして、境内に水野家四代の墓所があり、さらに於大公園を挟んで緒川城主三代の墓所があります。

善導寺

岡崎の松平に嫁いだ於大は、松平家が浄土宗だったことから地元緒川の浄土宗の善導寺へたびたび参詣し寄進をしています。お寺には於大の夜着が今も保存され、於大と家康の位牌が並んでいます。他にも県指定の文化財「異国降伏祈願施行状」が保管されています。境内にある塔頭の乗林院は、明治初めに緒川と石浜共同の郷学校をここで始めました。

沢瀉の井戸

地蔵院にあるこの井戸は水野家三代目清忠の妻が、子宝に恵まれるように祈願しました。その結果、子宝に恵まれたと言います。

村木砦跡

水野信元は織田信長の助勢を得て、今川軍を破りました。今は鉄道と県道が通り抜け、且つ宅地開発が進み昔の面影はありませんが、隣接する八剱社に説明板や石碑が建てられています。