村木砦の戦い
桶狭間の戦いより六年前、 織田信長が初めて戦で鉄砲を使い今川義元に勝利した「村木砦(むらきとりで)の戦い」
尾張国 村木村、それが現在の東浦町です。
90分で巡る織田信長戦いの跡
平成29年8月「村木砦の戦い跡」を巡る案内看板の設置が完了しました。JR尾張森岡駅前に「90分で巡る 織田信長戦いの跡」のタイトルをつけて、「村木砦の戦い」にまつわる主要な三カ所を巡るコースを案内しています。
三カ所とは織田信長が本陣を置いた村木神社、村木砦跡、織田信長軍が戦勝祝いをした飯喰場です。村木神社は現在の森岡の昔の地名が残る神社で、町指定の文化財「オマント」が秋祭りに行われます。
さらに、ここには三山禅定の碑(※下記参照)が25基もありとても貴重なものです。
是非一度、初めて鉄砲を使った戦いが繰り広げられた、村木砦跡を訪れてみてください。この戦いがどのようなものであったか、分かりやすく整理しましたのでご一読ください。
【村木砦跡見学者(八剱社参拝者)駐車場】
この場所は地主様のご厚意で利用させていただいております。
下記事項を遵守の上、ご迷惑をかけることの無いようにお願いします。
駐車場地図
駐車場拡大図
- 利用される方は下図の①~③のエリアに駐車お願いします。
- 図に示しましたように、中央の侵入部は地主様のトラックが出入りしますので、絶対に止めないでください。
- 尚、駐車中のトラブルについての責任は負えません。
桶狭間の6年前、初めて鉄砲を使った村木砦の戦い
1554年(天文23年)現在の東浦町森岡における、「村木砦の戦い」の様子は「信長公記」が伝えています。その後、緒川城主水野信元は織田信長の天下への道・徳川家康の三河平定を助け、天下統一に大きな影響を与えました。その元となったのが、桶狭間の戦いより6年前の「村木砦の戦い」に他なりません。水野家を取り巻く当時の背景と、戦いの経緯を整理すると次のようなものです。
知多・西三河を支配した水野家
戦国時代初めに、水野貞守が緒川城(小川)を造り知多半島から愛知郡南部・西三河の刈谷をはじめ衣が浦沿岸を支配し、戦国大名として活躍しはじめました。尾張の織田家や西三河の松平家などと、協力し合ったり対立したり、嫁をもらったり、養子をやったりと少しずつ勢力を伸ばしていきました。
貞守の4代目の水野忠政(お大の父)は、緒川城だけでなく、対岸の刈谷にも城を造り、さらに勢力を伸ばします。そして1541年(天文10年)娘「お大」を岡崎の松平広忠に嫁にやり、駿河から勢力を伸ばしてきた今川とも友好関係にありました。翌年にお大は竹千代(後の徳川家康以下「家康」)を生みます。
思慮深い水野信元
家康の生まれた翌年に水野忠政は天寿を全うしました。忠政の後を継いだのは、お大の兄の水野信元です。当時はまだ長子相続ではありません。忠政に相続を任されたのは思慮深く、有能であると認められたからです。
しかし、信元は織田信秀・信長親子と今川義元を天秤にかけて、どちらに付いたら将来があるかと考え、「織田方」に付く事を選びました。信元の行動がはっきりすると、お大など松平に嫁に行った妹たちは離縁して返されました。
水野信元は桶狭間の戦いの後で、織田信長と徳川家康と共に3人で同盟を結びます。
苦戦する織田信長
1551年(天文20年)に織田信秀が死亡します。その後「うつけ」と呼ばれた信長が跡を継ぎました。信秀の時代には尾張の多くの大名たちは信秀に協力して、三河などにも攻めていきましたが、信長の代になるとみんなバラバラになってしまいました。敵対するものも増えます。更に実の弟や実母も信長から離れていきます。ただ一人、叔父の織田信光だけが信長に協力してくれました。
今川が村木砦を造る
1553年(天文22年)に駿河の今川義元が尾張を支配しようと考え、緒川城のある隣の村木村の海岸に、砂の丘があることを知り、水野を滅ぼすのにちょうどよい場所と、軍隊を付けて砂丘に砦を建設しました。1千人の兵が守っていて水野信元としては簡単に手を出せません。そこで、織田信長に救援を頼みました。しかし、信長は尾張を平定するに苦労していた時です。「しばし待て、砦を造らせて、相手が油断するのを待て」と、返事がありました。
水野信元としては、遠くから眺めているだけです。今川の勢いは厳しくなり刈谷城の東にあった鴫原(今の重原)・鳴海・大高なども今川方になってました。また、西海岸の寺本城も今川方に従おうとしていました。
村木砦の完成
村木砦想像図
信元としては、イライラしていましたが、手も足も出ません。今川方としては、砦を3ヶ月ほどで完成させ、西尾の松平義春を村木砦の大将にして守らせました。しかし今川としては攻めるつもりはないようで、今川方につくように使者が時々来るだけでした。
織田信長の出陣
半年ほどたった、1554年(天文23年)1月中旬に、信長からの密書が信元に届きました。いよいよ信長が出陣するのです。その頃の村木砦には、3百ほどの兵がいましたが静かなものです。戦いはないものと安心しきっていました。水野信元は周りの支配地から兵や食料・戦船をこっそりと集めだし、準備をします。
織田信長は妻の御濃の実家、美濃の斎藤道三に頼んで那古野城の留守番をしてもらい、清須へ攻めていくふりをして、1月22日に熱田港より乗船します。しかしその時は尾張地方特有の冬の「伊吹おろし」の激しい日でしたが、それもかまわずに一気に師崎周りで知多半島を廻って、大井(南知多)で宿泊し、23日には緒川城に入ったといわれます。すでに、叔父の信光は村木砦の周りを固めて、逃亡や、今川への使者を通しませんでした。 夜には、武将が集まって、緒川城内で軍議が開かれました。
戦に初めて鉄砲を使用
織田信長は現在の村木神社に本陣を張り、戦いは1月24日朝辰の刻(8時頃)から始まりました。水野軍は周りの海上を封鎖し、大手門(東の海側)より攻め、叔父の織田信光は、西側のからめ手(裏門)から攻めます。急襲でしたので今川方は堀にかかる橋を落す暇がなくて信光軍が通れる状態でした。そこを突き破って六鹿椎左衛門が1番乗りをしました。
織田信長は1番攻めにくい南側を受け持ち、その中央で弓の届かないぎりぎりの距離から、鉄砲を構えて1発ずつ打ち放しました。その発砲音は今川勢にとっては初めて聞く大音響です。それだけで兵隊はおびえてしまいます。さらに目に見えないほどの速さで、玉が飛んできて一人倒れ、また一人倒れます。信長の回りには数人の兵士がいて、玉を打った鉄砲を掃除し、火薬と玉を入れて火ぶたを切る寸前にしてかわるがわる信長に鉄砲を渡します。
それで次々に発射することができるので、バッタバッタと敵兵は倒れます。これこそ鉄 砲の威力をまざまざとみせつけたのです。長篠の戦いで鉄砲がたくさん使われたことは知 られていますが、日本の城攻め砦攻めで初めて鉄砲が使われたのが村木砦の戦いです。
織田・水野連合軍の大勝利
村木砦想像図
戦いは今川方が降伏し数時間で終わりました。戦いの終わった後、山あいの広場で大祝宴会が開かれました。その場所を今でも「飯喰場(いぐいば)」と呼んでいます。そこで信長は、武将だけでなく、雑兵にいたるまで「そこもとも、そちも」と手を握って涙を流して労をねぎらいました。この勝利によって、織田と水野の結束はより強くなります。(イラストは現在の飯喰場)
信長の帰陣
その日は緒川城で宿泊し、次の日には陸地を通って那古野へ帰りますが、寺本城に寄って、城下を焼き払って行きました。那古野に帰ると、斎藤道三の家来が守っていましたが、あまりに早い帰城に驚きました。
美濃に帰ってこのことを主の斎藤道三に報告しますと、「隣の国にそのような猛将がいることは恐ろしいことだ、我息子どもがひれ伏すことになるだろう」と言ったそうです。(後に、道三を殺した息子は信長によって殺されることになります)
砦跡と首塚・処刑場跡
戦いの終わった後、村木砦はすべて焼き払われ、江戸時代を通じて畑となりました。地名は今でも「取手(とりで)」として残されています。堀の多くは埋められて道路として利用されています。1885年(明治18年)には、砦の中に鉄道が敷かれ、その周りの土を使って線路の道床として使われました。また1934年(昭和9年)には同じように砦の中に県道が建設され、その周りの土で道床としました。
この戦いで戦死した人々の死体は山の手にまとめて埋められ、「首塚」と呼ばれてきましたが、いつしか場所がわからなくなってしまいました。そして戦いの17年後に水野信元の家臣が両軍の戦死者を弔うため八剱神社を建立しました。
また、戦が終わって信長が帰り際に「村人で今川に協力したものは処刑せよ」と言い残していきましたので、何人かを処刑することになりました。好き好んで今川に協力した者はいないのにやむを得ず処刑したのです。しかし、これが原因で村人同士がいがみ合い、いつまでたっても仲良くできない状態になりました。そんな時、水野氏一族のひとりが処刑された人々の供養を始めました。400年以上たった今も毎年「観音会」という法要を行って死者を弔い、住民の安らぎを願っています。
村木砦の戦いに関わる史跡
村木神社
戦いの時に織田信長が本陣を張った場所。今も「おまんと」(町の文化財)が行われるなど村の神社として祀られています。
村木砦跡
今は宅地開発が進み当時の面影はありません。しかし、堀跡が道路として使用されていて、砦の形が分かります。隣接する八剱神社に村木砦の戦いの説明板と石碑があります。
飯喰場
戦い後に戦勝祝いをした場所、今は少し高くなった場所が公園として整備されています。春には隣の上新池を取り巻く桜がみごとです。
処刑場跡
戦いの後で処刑された村人を今でも供養しています。(個人のお宅です)
村木砦 砦印 販売中 <1個300円>
水野宗家20代当主の水野勝之氏による揮毫と、織田、水野両家の家紋、当時の村木砦のイラストを配しました。
東浦町勤労福祉会館と東浦町郷土資料館(うのはな館)で販売中です。
村木砦へのアクセス
電車をご利用の場合
【名古屋・金山方面から】
- JR武豊線直通・区間快速武豊行き「尾張森岡駅」下車
- JR東海道線「大府駅」にてJR武豊線のりかえ「尾張森岡駅」下車 ※大府駅には特別快速は停車しません
【刈谷・安城方面から】
- JR東海道線「大府駅」にてJR武豊線のりかえ「尾張森岡駅」下車 ※大府駅には特別快速は停車しません
【半田・武豊方面から】
- JR武豊線「尾張森岡駅」下車
車をご利用の場合
村木砦跡見学者(八剱社参拝者)駐車場
この場所は地主様のご厚意で利用させていただいております。
下記事項を遵守の上、ご迷惑をかけることの無いようにお願いします。
駐車場地図
駐車場拡大図
- 利用される方は下図の①~③のエリアに駐車お願いします。
- 図に示しましたように、中央の侵入部は地主様のトラックが出入りしますので、絶対に止めないでください。
- 尚、駐車中のトラブルについての責任は負えません。
※補足説明
三山禅定の碑とは
元は各字の富士塚に祀られていましたが、村木神社北側に移設されました。富士塚とは、江戸中期に富士権現の信仰(富士講)の風習が非常な勢いで広まり、富士塚は信者たちの遙拝所でした。昔は郷中のあちこちにあったようです。
三山とは「白山」「立山」「富士山」のことで、江戸から明治期にかけてこの三山を一ヶ月ほどかけて歩いてお参りしました。それを記念した供養碑で、正面には三山銘と年号が、側面にはお参りした人の名前が刻まれています。
呼び方は三山禅定の碑、富士塚供養碑、三山信仰の碑などと呼ばれています。郷土資料館の先生によると「これだけの数の供養碑が集められているのは日本一の規模ではないか」とのことです。