於大の方

徳川家康の母として、水野家と松平家を支え戦国時代を生きた 於大の方

【内容】

戦国時代中期~後期を生きた於大の方/
東尾張と三河の勢力図/
当時の三者(織・水・松)の関係/
於大の方ものがたり/
「桶狭間の戦い」その後の三者のできごと/
参考文献 など

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於大の方物語

水野氏の娘として 家康の母として 戦国の世に生きた於大の方
その波乱の生涯は 時をこえて 郷土に語り継がれてきました

 各地で武士が天下を目指し、自身の生き残りをかけ、争った戦国時代。於大は享禄元年(1528)、東浦の緒川城四代目城主水野忠政の娘として生をうけました。この頃東海地方では、東に駿河守護今川氏、北に尾張の守護勢力の斯波氏と織田氏がひかえ、その間の三河と知多半島には松平・水野・佐治・戸田・大河内氏らの新興勢力が台頭し、今川方か斯波・織田方のいずれかについて、攻防を繰り返していました。
 緒川・大高など知多半島北部と三河刈谷を支配していた水野忠政も、今川方の岡崎の松平氏と手を結ぶため、於大を松平広忠のもとへ嫁がせました。しかし、広忠との間に家康が誕生して間もなく、今度は忠政の跡を継いだ兄 信元が織田方についたため、松平氏と離縁することになりました。
 その後は、再婚先の坂部の久松氏のもとで暮らし、さらに息子家康が関ヶ原の戦いで勝利し、天下統一を進めるなかで、家康の母としても力を尽くしました家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く1年前の慶長7年(1602)、京都伏見城で最期を迎え、75歳の生涯を閉じました。その時々の情勢に左右されながらも、一生を生き抜いた於大は、まさに戦国の世界に生きた女性でした。

  • 享禄元年(1528) 於大 緒川城址に生まれる

    母 お富の方
    父は四代緒川城主水野忠政、母は華陽院於富の方でした。天文元年(1532)三河のほとんどを我がものにした岡崎城主松平清康から求婚された母於富の方は、忠政に離縁され清康に再嫁しました。
  • 天文2年(1533)6歳
    忠政は西三河へ勢力を伸ばそうと考え、緒川の対岸刈谷に立派な城を築いてここを水野氏の本拠地とし、家臣団とともに移りました。
  • 天文7年(1538)11歳
    緒川を去って刈谷城に移った於大は、水野貞守をはじめ祖先の墓がある乾坤院へ、土地を永代寄進しました。
  • 天文10年(1541)14歳 岡崎城主 松平宏忠に嫁ぐ
    織田・今川両雄の間にあって、緒川・刈谷の領主水野忠政は、織田方に属しながらも今川方の松平氏を結ぶことで勢力を保とうとしました。その政略のため、於大を16歳の岡崎城主松平宏忠に嫁がせました。そして翌年、竹千代(家康)が生まれました。
  • 天文11年(1542)15歳

    於大の方 15歳
    母於富の方も岡崎に嫁いでおり、母子ともに政略に利用されたのですが、この年12月26日、於大は玉のような竹千代(家康)を生みました。
  • 天文12年(1543)16歳
    幸福の日々は短く、父忠政が病死し相続した兄信元は四方の情勢をみて、今川・松平氏を敵とし、尾張の織田信秀と手を結んでしまいました。
  • 天文13年(1544)17歳 離縁され刈谷へ帰る

    於大は家康の将来を考え、供の者を帰した
    父忠政の没後、家督を継いだ兄信元は、織田方の旗色を鮮明にします。宏忠は敵方の妹を妻としておけず、今川氏に気兼ねして於大を離縁しました。於大は3歳の竹千代を残して岡崎から帰される途中、機転をきかせ、領地境で送ってきた岡崎の家臣を帰し難を逃れさせたと、後に語り継がれています。
  • 天文15年(1546)19歳
    於大は残してきた竹千代を思いながら、刈谷城外の椎の木屋敷に住み、刈谷楞厳寺で佛門に入り手持ち品を納め、乾坤院や善導寺へもたびたび参詣しました。
  • 天文16年(1547)20歳  坂部城主 久松俊勝に再嫁する
    坂部在城は15年に及び、夫俊勝との間には、康元・康俊・定勝など三男四女をもうけました。
    岡崎では織田の大軍乱入に耐えきれず、今川氏に援助を頼みました。義元は受託すると引きかえに、竹千代を人質として求めました。天文16年8月、竹千代は今川の人質として駿府へ行く途中、田原の戸田氏に奪われて織田信秀のもとへ送られました。この春、阿久比の久松俊勝へ再婚をした於大は、大変心を痛めました。
    熱田の加藤図書助屋敷で暮らす竹千代のもとへ、於大は折々のお菓子や手縫いの着物に心のこもる手紙をそえて励まし続けました。また阿弥陀経を血書して、毎日無事を祈りました。
  • 天文18年(1549)22歳
    3月に宏忠が家臣に殺されました。一方今川軍は安祥城を取り返し、城主織田信弘と竹千代の人質を交換することになりました。駿府へ移った竹千代のもとへ於大は絶えることなく使いをよこして励ましたり、於大から今川義元に頼んで、母源応尼(於富の方)が竹千代の養育に当たることができるようにはからいました。
  • 天文21年(1552)25歳
    於大は阿久比で長男久松康元を生みました。また緒川は生まれた所であり、善導寺へよく参詣して三尊来迎の像と佛供田を寄進しました。
  • 天文23年(1554)27歳
    今川軍の村木砦を信元と信長連合軍が攻略。
  • 弘治3年(1557)30歳
    兄信元と子の元康(家康)が石ヶ瀬で合戦。
  • 永禄3年(1560)33歳 於大 家康と再会する

    親子の再会
    この年、上洛をめざす今川義元の先発隊として出陣した元康(家康)は、桶狭間合戦二日前の5月17日、上洛をめざす今川義元の先発隊として出陣した元康(家康)は、知立から敵方の阿久比へ馬を駆け、母於大と17年ぶりの涙の再会を果たしました。そして、対面した三人の異父弟に松平の姓を許しました。
    同年5月19日信長の奇襲作戦、桶狭間の戦いで今川義元は討死にし、大高城の元康は孤立しました。これを助けたのは緒川の信元で、急いで家臣に案内をさせたので、元康は無事岡崎へ帰ることができました。
  • 永禄5年(1562)35歳 夫 久松俊勝とともに岡崎へ移る
    今川亡きあと信元が仲介して、織田信長と松平元康が清州城で同盟を結びました。夫久松俊勝は、家康にとりたてられ蒲郡の上ノ郷城主となりました。城を息子の康元に守らせ、岡崎城の警固にあたる夫とともに、於大は岡崎に移りました。信元を始めとする水野一族は、家康を助けて三河の一向一揆平定に力を尽くしました。
  • 天正3年(1575)48歳
    信元が武田方の岩村城に内通していると佐久間信盛が信長にざん訴したため、信長の命令で家康によって信元は殺されました。信元の罪によって長男元茂も、於大の義子やその子も殺され、緒川刈谷の所領はすべて佐久間の手に渡り、水野一族は分散。緒川にとって無残な時代となったのです。こうした中でひとり信元の子、利勝は3歳の幼子であったので、乳母の手で岡崎にのがれ、土井家の養子としてかくまわれました。これが三代将軍家光の守役、徳川幕府の大老となった、土井利勝です 。
  • 天正7年(1579)52歳
    家康の妻築山殿と長男信康も、武田に通じているとして信長の命令で殺され、於大にとって嫁や孫にも害が及ぶ悲しい日々となりました。
  • 天正8年(1580)53歳
    信長は長年の大阪石山本願寺攻めを勅命によって和睦しましたが、この戦いの総大将佐久間信盛の怠慢を責めて、高野山へ追放しました。佐久間を追放した信長は、緒川刈谷城主であった信元に、罪のなかったことがわかり、信元の弟忠重を刈谷城主に、忠守を緒川城主に復帰させ、水野氏と緒川の関係が戻りました。
  • 天正15年(1587)60歳
    蒲郡上郷城主で、岡崎城主の留守を預かっていた夫久松俊勝が亡くなりました。遺骨は蒲郡の安楽寺と阿久比の洞雲院へ葬りました。
  • 天正16年(1588)61歳 剃髪して尼となる

    刈谷楞厳寺所蔵 伝通院画像(摸写)/於大の方 61歳
    於大は夫利勝の眠る蒲郡安楽寺の寿慶上人により剃髪式を行って尼となり、伝通院の号を授かりました。
  • 天正18年(1590)63歳
    家康は関東六か国へ移され、一族と共に江戸城へ入り、於大と俊勝との長男康元は下総関宿城主、三男定勝は下総小南城主となりました。
  • 文禄3年(1594)67歳
    於大は永禄3年に駿府で亡くなった母華陽院の姿と自分の姿を、一対のものとして絵師に描かせ、鏡の御影として刈谷楞厳寺へ納めました。
  • 慶長7年(1602)75歳 伝通院於大の方 逝去する

    於大の方 逝去
    於大は長男康元、三男の子松山城主定行に伴われて伏見城の家康を訪ね、後陽成天皇に拝謁。高台院を訪ね豊国神社を参拝しました。同年7月に発病した於大は、家康らに見取られながら「日本一幸福な母」として、8月28日京都伏見城で75歳の生涯を閉じました。法名は、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。於大の葬儀は京都知恩院で営まれ、遺骸は江戸へ移され小石川の傳通院に葬られました。位牌は緒川善導寺と乾坤院にも安置されています。

引用元:パンフレット「於大のみち 歴史散策路」「徳川家康の生母 於大の方」
挿絵:高橋茂樹氏

於大のみち 地図

於大のみち 歴史散策路

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徳川家康の生母 於大の方

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傳通院に「於大の記念碑」完成

東京の傳通院於大の墓の前に、於大が東浦の緒川城で生まれたことなどを説目する記念碑が完成しました。11月17日傳通院の十夜法要会に合わせて、神谷町長、水谷観光協会会長ら協会役員が訪れて除幕式が行われました。
於大の方が家康の母であることは良く知られているものの、東浦の緒川城で生まれたことはあまり知られておりません。東浦の知名度向上のためにも、於大の方の生まれ育ちを知ってもらえる説明板の設置計画を進めてまいりました。そして、みなさんからのご寄付もいただくことで、町制70周年の今年完成させることが出来ました。
東京へ出かける機会にはぜひ傳通院に立ち寄り、於大の方のお墓にお参りくださることを念願しております。

THE LIFE OF MADAM ODAI(ODAI NO KATA)

MOTHER OF TOKUGAWA IEYASU

Madam Odai was born on the year 1528 (in the first year of Kyouroku) as the daughter of Mizuno Tadamasa, the fourth generation of samurai lord in Ogawa Castle at Higashiura Town,Aichi Prefecture.
??It is said that the father Tadamasa built a castle in Mikawa Kariya and moved with the clan when Madam Odai was 6 years old.
In the tenth year of Tenbun (1541) during this time, Imagawa clan had the alliance with the Okazaki Castle samurai lord. Madam Odai married Matsudaira Hirotada and Takechiyo (Ieyasu) was born.
?After the death of her father Tadamasa, her elder brother Nobumoto taken over the headship and gave ally to Oda clan. Because of this, Madam Odai was separated and returned back to Kariya .
Later, she remarried Hisamatsu Toshikatsu , the samurai lord of Sakaba Castle . They went on to have 3 sons and 4 daughters. Her husband Toshikatsu died in the fifteenth year of Tenshou. The following year, she became a nun and the Buddhist name Denzuuin was given.
In the seventh year of Keichou (1602) , Madam Odai stayed at Kyoto Fushimi Castle by the invitation of Tokugawa Ieyasu (the ruler over the whole country of Japan) . Madam Odai closed her entire life there at the age of 75 years old.
?Madam Odai who lived in turbulent war period kept on wishing to have a peaceful world without constant battling. Her swing life stories can still be talked beyond ages.
?There are sites of Ogawa Castle and tombs of the 4th generation of the Mizunos (“ Kenkon-in” ,their family temple ) remains in its premises at Higashiura hometown of Madam Odai.

We are looking forward to your visit in the near future.

November,2018
Higashiura Cho Kanko Kyoukai